2014年振り返り

今年つくったものを見ながら、今年を振り返ってみようと思います。

作ったサイト

1.Pairy Date

2月の頭頃にインターンし始めた会社での最初の仕事。
この頃は、Webのスキルを業務レベルにしようと必死でした。

2.Famm

インターンしていた会社の二作目。
この間に、既存のサイトの調整とかWebビューページとかやってますが、ちゃんと作った感あるのが、このサイトです。ちなみに、今のサイトはバージョン2です。

あと、ひたすらレスポンシブルに頑張ってたんで、大分慣れてきた感はあります。

そういえば、ロゴも作った記憶があります。

3.ワカスタ

知り合い経由で頼まれて作りました。
慣れない仕事環境で大変でしたが、なんとかやりきりました。

部品部品は割りと気に入ってます。

4.yohawing.com Ver.3

ほぼ、javascript制御に切り替えたり、SVG使ってみたりとかしてました。
Indexサイトに専念した作りとか意識したり、
来年はもうちょっと遊んでみたいですね。

5.Hiroyuki Ikezawa

作るのに一年かかった怪作です。
テーマは小説。
特殊なデザインのサイトを作れて地味に嬉しいやつです。

6.ヨハウィングのじゆうけんきゅう

ProcessingのコードのJs移植とかビジュアルコーディングの研究とかやってました。
みんなが見れるサイトを、デザインと実装込で3日で作るスピード感がそこにはありました。反省としては、Vue.jsくらいは使っておくべきでした。Json汚い。
ComicSansは意外と使えることがわかりました。

7.新しい会社での仕事

細かい所いろいろお手伝いしました。
ガッツリ系は、来年ローンチのやつが一個あります。

8.The Snowflake Story

雪の結晶の一生を追体験できるコンテンツ
いわゆる、アニメーション作品を作りました。
Webならではでも、プログラミングならではでもなく、ただただ、力技頑張りました。2014年を締めくくってます。

 

来年は社会人になって、もりもりインタラクティブやりたいです。

黒人ヒッピーは居なかった


モンタレーポップフェスやウッドストックなどの映像を見ていると、観客側に黒人が異様に少ない事に気付いた。また、嵐の青春(PSYCH OUT)や白昼の幻想(TRIP)のようなヒッピー文化を主題とした映画を見ていても、黒人の出演者は少ない。このことから、ヒッピーにおける黒人の人口が少ないことに気付いた。当時ヒッピーの間で流行していたロックミュージックやサイケデリックロックは、黒人のブルースやゴスペルが元になっている部分が多く、黒人が作った音楽と言えるのにもかかわらずである。これには、当時のアメリカの黒人迫害の世相と密接に関係しているものと思われる。今回は、黒人とヒッピーとロックの関係図を洗い、論を作ることとする。

黒人からロックは生まれた。

そもそもロックは黒人が作った音楽である。20世紀初頭にブルースと呼ばれる音楽が、労働階級の黒人の間で生まれた。当時の黒人迫害の影響を色濃く残した、極めて原始的な音楽であり、歌われた内容は、労働や女や酒など、当時の風俗の事を主題とした内容がほとんどである。しかし、その感情に直接結びついた表現方法は、当時としては極めて画期的であったようである。ブルースが登場する以前は、クラッシック音楽のような、貴族のたしなむ洗練された知的な音楽のほか、教会で歌われるようなゴスペル(神への賛美歌)など、綺麗な俗要素のない音楽が主流であった。しかし、ブルースはそこから音楽を解放し、人間の本能と直結したような、極めて泥臭い音楽であった。登場した当時は黒人の間で、酒場で客を盛り上げるような形態で演奏されていたようだが、耳の早い音楽家がブルースの存在を嗅ぎつけ、本国でブルースを紹介しだした。これが今後に音楽の歴史を作る、「ロック」の誕生である。

白人がブルースを見出した

ブルースはその後、黒人の間でヒットし何万枚ものセールスをあげたが、それは黒人の間でだけの流行であり、世界的にブルースが流行するのは、エルビスプレスリーの登場を待たなければならない。チャック・ベリーなどが、ブルースをロックンロール・ブギウギへとの進化へと貢献したのち、エルビスプレスリーが白人としてそれを取り入れた瞬間に、ロックンロールは大ヒットを果たした。ブルースは、音楽としては多大なセールスの可能性を秘めていたものの、「黒人の音楽」というだけで、広い層には普及しなかったのである。プレスリーのヒットにより、ロックンロールにビジネスチャンスを見出したレーベルは、積極的にミュージシャンのプロモーションをするが、そこに黒人の介在する余地は少なく、あたかも「ロックは白人の音楽である」というスタンスを貫いた。このスタンスを抜け出すのには、ジミ・ヘンドリクスの登場を待たねばならないのだが、それだけ、黒人差別という文化の根は深かったように思える。かくして、黒人音楽は黒人不在のまま世界的にヒットを果たすのであった。

なぜ、黒人ヒッピーは居ないのか

ヒッピーは白人の富裕層から生まれた文化である。そもそも、お金に余裕がなければドラッグに浸る余裕もないし、国の体制に隷属されていた黒人がそこからの反抗としてヒッピーとして浮浪を始めるというのは、贅沢過ぎたのだ。当時の黒人は生活がやっとであり、日々生きることが精一杯であった。レコードを買って音楽を嗜み、集会やコミューンにふらふらと顔を出す余裕などなかったのだ。かくして、ヒッピーは白人専用の文化となり、そこに黒人が介在しようものなら、人類皆平等を謳っていたヒッピーですら、根強く残る黒人への偏見がそれを許さなかったのである。しかし、音楽的に評価されていたミュージシャンはこの偏見を超え、聴衆にエクスタシーをもたらすエンターテイナーとしてある程度の支持は得ていた。しかしそれでも、ジミ・ヘンドリクスはイギリスでヒットしていなければ、アメリカ本国での登場は遅れていただろうし、また、ソウルミュージックの素晴らしさに白人が少しでも目を向けなかったら、オーティス・レディングがモンタレーであれだけの喝采を浴びることはなかったであろう。それほど、アメリカ本国での黒人差別はひどかったように思える。

しかし、その頃の黒人の間では音楽は何も流行せずにいたわけではなく、黒人クラブのなかでは、ファンクミュージックが賑わいを見せていた。ソウルミュージックから派生した、踊れて陽気で元気の出るファンクミュージックは、公民権運動で疲弊していた人々の心を癒していた。黒人はヒッピーになり、ドラッグに浸る日々ができない代わりにファンクミュージックで仲間と踊り明かし、ハイになっていたのであった。ファンクミュージックでは、ジョージクリントンジェームズブランなどのスターがシーンを牽引し、後世に多大な影響を与えた。黒人の独特のリズムの捉え方は人間の本能に根ざしたものがあり、このリズムは後々の音楽に山ほど取り入れられることにもなる。

ロックを取り戻した黒人

1970年代の終わりになると、当時アメリカで起こっていた公民権運動は沈静化をみせ、黒人への社会的な差別は次第になくなっていった。音楽においても、ソウルミュージックが流行を果たし、黒人の音楽の素晴らしさを人々が楽しむようになったのである。その発端は、モンタレーでの黒人ミュージシャンの素晴らしい演奏が背景にあるのかもしれない。ファンクやディスコの楽曲も白人の間でもセールスが上がり、世の中の風潮から、次第に差別の色が薄れていったのである。ブルースやソウルミュージックを作ったとして、黒人ミュージシャンを見る目は次第に世の中に溶け込んで行き、生活も安定したのか、観客に黒人の姿が見られるようになったのもこの頃である。プリンススティーヴィーワンダーらが世界的なヒットを果たし、世界からも黒人音楽の支持が集まりだした。

白人の音楽も盛り上がりを見せる

しかし、ロックは白人のものでもあった。80年代になると、オルタナティブロックの兆しが見え始めたり、パンクミュージックがイギリスで流行った。ブルースの臭いは多少残るものの、全く新しいロックの形が白人の間で生まれたのである。一方黒人の間では、アンダーグラウンドでヒップホップの手法が開発されたりディスコ・ファンクなど、そちらでも賑わいを見せた。プログレッシブロックの流行では、黒人的な要素からの脱却を目論み、無機質で複雑な感情を排した硬い音楽が台頭を見せたり、テクノミュージックのような一定のリズムの反復によるエクスタシーの追求もこの頃なされた。音楽文化が一気に花開き、その役目を担ったのは他でもない白人であった。

まとめ

ロックミュージックは、黒人が生み出し白人が広めたということは、揺るぎない事実ではあるが、その裏には人種差別という文化があったのだった。今こそは、その壁は薄れつつあるものの、ロックは白人の音楽であるという固定観念が根付いてしまった。ヒッピーに黒人が居なかったように、ロックの歴史には黒人は居なかったのだ。いや、そうされてしまっている。文化と人種は常に密接に繋がっているが、時にはそれに気づかずに過ごしてしまう。しかし、よく考えてみれば、人種のるつぼとよばれるアメリカの1文化に白人しか登場しないのはおかしい話である。その裏に、人種差別という文化があったことに目を向けるべきではなかろうか。

編集とデザイン

先日、創刊から一年間所属していたフリーペーパー制作団体を辞めました。辛いことも楽しいことも為になることも色々経験させていただき、とても有意義な時間を過ごせました。みんなありがとう。これからも、頑張って欲しいです。

その団体では、アートディレクション・紙面の品質管理・Webなどなど、色々手と口を出しながらお仕事をこなして来ました。主に後輩たちにInDesignとタイポグラフィを教えることに終始した感じはあります。この時代においても、やはりAdobeソフトをいじれたり、Webサイトを作れたりする学生は希少種なようで、時には仕事人として、時には便利屋として、無償で色々こき使われたりしました。楽しかったです。

数々の有名雑誌が廃刊し、「雑誌はオワコン」と密かに囁かれる現代において、フリーペーパーというフォーマットをやる意味が自分にはあるのかと。そんなことを考える日々もありました。

この記事は、雑誌作りで勉強したことと、フリーペーパーというフォーマットについて。色々考えたことを載せます。この一年お勉強したことのまとめ。少々お付き合いください。

  1. フリーペーパーを創刊する(のを手伝った)
  2. 雑誌のコンテンツを考える
  3. 雑誌の紙面を作るときの、やることリスト
  4. 紙面のデザインをするということ
  5. 編集とデザインの カ ン ケ イ
  6. 雑誌の生きる道、死にゆく道
  7. ハイパーリンク VS ペーパーメディア
  8. まとめと謝辞

フリーペーパーを創刊する(のを手伝った)

「フリーペーパーを作りたいので、手伝って欲しい。」

そう頼まれたのが去年の3月の半ば頃で、その時は「よくある学生のフリーペーパー団体っぽいことやるのは嫌だなぁ」とか思っていて、最初は断ろうかと思っていました。しかし、「宇宙のフリーペーパーを作りたい。特に宇宙開発のホットな情報を高校生に伝えるもの。」と聞いた時。宇宙いいじゃん!宇宙!ターゲットも決まってるし、宇宙ってなんかいいじゃん!とか思ったので、やっぱり手伝うことにしました(笑)。宇宙ってなんかいいですよね(笑)。うん。

ものづくりをする時、どんなものをでも言えることなのですが、

  1. それが世の中に必要なのか
  2. それを作れるリソース(資源)があるか

この2つをクリアする必要があります。

① まずはじめに、何が世の中に必要とされているかということを考えます。ターゲット(相手)を設定すると分かりやすくなるのですが。例えば、宇宙に興味を持っていて、宇宙系のお勉強をしたい高校生が、宇宙開発の情報をわかり易く知れるようなフリーペーパーが存在していない!だから、それを作る。とか。これから作るものの、どの要素が世の中に必要とされているかを明快にすることによって、自ずと作る物のコンセプトが決まるかと思います。それが、ものづくりにおける、重要な柱となり最後までブレずに、良い品質のものを作ることができるのです。

② また、ものを作るにあたってリソース(資源)があるかないかは、当然重要な問題となってきます。自分で作れなければ、作れる人を誘えばいいし、お金で解決もできます。そして、それをどうやって作るか、どこまで作りこむか、など考えることは沢山あります。ソフトが無ければ、Adobeと悪魔の契約を交わせばいいし、スキルが無いなら、実践で身に付ければそれでいいのです。

雑誌のコンテンツを考える

雑誌のコンテンツの良し悪しは、8割型見出しで決まると言っても過言ではありません。見出しとは、その記事のコンセプトの簡潔な表れであり、人目を引くキャッチコピーでなくてはありません。良い見出しが、良い記事を形作るとも言えるでしょう。見出しから記事を作る場合も多いかと思います。

良い見出しを作るためには、目的とターゲットをシンプルにしないといけません。①自分が伝えたいことを、どのように受け取って欲しいのか、②その伝えたいことは、簡単に表現できるか。この2つをきちんと考えてさえいれば、良い見出しと呼べる基準をクリアするのは容易いことかと思います。見出しは、雑誌においてもインターネットにおいても、非常に重要なものとして扱われます。また、情報にアクセスする際の掴みとして、その記事のクオリティを左右する指標としても機能します。

雑誌のコンテンツを考えるにあたって、良い企画を考えることも大事ですが、よい見出しを生み出すことがそのまま記事のクオリティを左右すると言っても過言では無いでしょう。

雑誌の紙面を作るときの、やることリスト

雑誌が、小説や写真集などと本質的に違うところは、自己表現を省き、情報のまとめを体系立てて伝えるところにあります。つまり、デザイン力でも文章力でもなく、情報の編集力のウェイトが大きいのです。編集者は、ただの校正作業に留まらずに、様々な情報を幅広く取り入れて考えなければいけないのです。雑誌とは編集人がつくるメディアなのです。

雑誌の編集やデザインをしていると、既存のさまざまな雑誌を注意深く観察する機会が増えます。そのとき、プロが考えたりしている、雑誌づくりの大切な要素が少しづつ透けて見えてきます。

見出しから次のページをつなげる視線誘導・ページネーション、写真や図画の効果的な使い方や、斬新で面白いレイアウト。コピーや文章のタイポグラフィ・組版の巧みさや丁寧さなど、先人の努力と工夫から、様々な点で取り入れるべきところがあります。

編集者もデザイナーも、この訓練を日常的にしないといけません。審美眼と思考力の一番効果的な訓練は、既存の良いものの、分析と完コピであると僕は思っています。完成品から逆算をして、自分はどういうことを考えれば、そのアウトプットに行き着くことができるかを逆算することによって、実際の作品制作に応用することができるのです。

紙面のデザインをするということ

雑誌のデザインをするにあたって、注意しなければいけないのは、マクロな(ざっくりな)視点とミクロな(細かい)視点の両方を持たなければいけないところです。

マクロな(広い)視点では、読者がページをピラピラとめくった時、それがどんな記事でどう魅力的かを、すぐに分からせないといけません。その記事にまつわるキーワードを散りばめて、記事の要点を一瞬で伝えます。写真を効果的に配置したり、配色色や紙の種類を変えるのもよいでしょう。特集記事ごとに違った印象を与えなければいけません。ページごとに、文字の色やフォントを変えたり、写真の使い方やレイアウトを効果的に組み替えて、ページをめくる楽しさを演出します。

ミクロ(狭い)な視点では、文字組やアキ量設定を調整したり、記事ごとの視線の流れの誘導をしっかりと設計することを考えないといけません。ここは、デザイナーの力の見せ所ですね。泣き別れやぶら下がり、カーニングに合成フォント。デザイナーが知らないといけない知識はかなり多いです。ぜひInDesignを使って様々な細かい設定にトライしてみて、必要な知識を身につける必要があります。

編集とデザインの カ ン ケ イ

編集はデザイナーであるべきだし、デザイナーは編集者であるべきでもあります。編集は情報を体系だててまとめる役目、デザイナーは情報を整理する役目を担います。その2つに本質的な違いはさほどありません。バラバラの要素を整理して整合性を持たせて、ひとつのストーリーをつむぎ、読者にアクティブな感動を与えられるように工夫することが、編集デザイン(エディトリアルデザイン)の仕事であると思います。

これらの事をきちんと実践するためには、デザイナーは編集者の視点を手に入れないといけません。また、編集者もデザイナーの方法論を習得しないといけません。どのような情報のまとめ方をしたら、人の興味を引くことができるか、どのような言葉遣いをしたら、記事の内容に興味を持ってもらうことができるか。一つ一つのデザインに意味や狙いを持たせて、そのアウトプットをその都度自分の目で確かめないといけないのです。

雑誌の 生きる道、死にゆく道

雑誌は死んでいると言われて久しですが、本当に必要とされる情報が、きちんと編集されて人の目に触れているのであれば、どんなメディアであれそれは「Magazine」と機能すると言えるのではないでしょうか。たしかに、紙の媒体としての雑誌は商業的には終わりを迎えているのかもしれません。しかし、それはWebへと時代が移行して行く中で、雑誌の紙メディアとしての存在理由・アイデンティティを確立できなかった。わざわざ紙で読む必然性をとその差別化を提供できなかった結果に、昨今の状態があるのだと思います。

さて、新聞や雑誌はこのまま、古い情報しか扱えない層の中でくすぶって行くのでしょうか。書籍」が骨董品へと変化して行く中、雑誌やフリーペーパーはどのような役割を果たさなければいけないのでしょうか。

[ 無料化 ] が進む編集物のゆくえ

少し前のフリーペーパーの印象は、死にゆく雑誌の運命を裏切る新しい雑誌のビジネスモデルであったと思いますし、学生にやさしい新たな情報発信のスキームを与えた、若者ヒーローであるとも言えます。しかし、広告のみでその資金全てを賄うそのビジネスモデルは、商業として成立させるのであれば、フリーペーパー自体が広告に支配されるほかありません。資本主義に隷属化させることを望むのであれば、自身を広告の権化とするほかないのです。

そこで、資本主義の無言の圧力を無視した、草の根的な活動のフリーペーパーが死にゆく雑誌の代わりを果たさなければいけない時代が来ていると思います。きちんと編集された無料の情報は、人に読んでもらえたり、その時代において社会的に有用な情報を与えることのできるメディアになりうります。現代人は、無料の情報に慣れすぎてしまったのです。

ハイパーリンク VS ペーパーメディア

Webのメディアと、紙のメディアを優劣つけたがる流れが最近だと多いように感じられますが、それは非常にナンセンスであると思います。インターネットと紙とでは情報の編集の仕方が全く異なっているので、両者を同じ土台に持ってきて比較することはすべきでは無いと思っています。

インターネットには、ハイパーリンクというインターネット特有の情報構造が存在していて、情報と情報は数珠つなぎのようにつながっています。軽量な情報の集積とが見えないひもで結ばれていて、読者は海の中を浮かぶように情報を取り入れないといけません。

紙のメディアは、情報がそれで完結しています。例えると岩のようなものでしょうか。情報はページネーションの中での物語のように完結してなければならず、他のメディアへの連結はタブーなように思えます。一冊の短編小説を読むような物語をつむぎ、コンテンツとしてよい読後感へとつなげることが、紙メディアの目指すべきところであると私は思うのです。

まとめと謝辞

長々と書いてきましたが、言いたいことは3つです。

  1. よい雑誌を作るためには、編集とデザインの両方の視点をもつ
  2. 情報の扱い方はメディアに応じて変える必要がある。
  3. 雑誌は死なない。成熟してゆく。

世の中の情報は、深化と多様化をたどる一方で、メディアに関わる僕たちの生活もより一層複雑になってゆきます。その中で、情報をキュレーションして生活者へと届ける、編集者の仕事はより難しく大切になってゆくのだと思います。

と、まぁ。えらそーな事を書いてきましたが、たった一年間雑誌のデザインしただけの、しょぼい学生の考えたことなんで、あまり真面目に取らないほうがいいとは思いまスミス。

この一年は、インターネットと紙メディアを行き来していたので、色々と視点が広まった気がします。この場を借りて、僕を成長させてくれたフリーマガジンTELSTARに感謝の意を申し上げたいと思います。

編集という視点は、コンテンツを作る上で非常に重要なものであると思います。編集とデザインの力で、ただの野良情報をコンテンツに変える事ができる大人になりたいもんですね。

BjorkとSquarepusher

音楽サークルでやって来たこと
軽音楽サークルに入っていてその集大成としてBjorkをやりました。
一年の締めくくりとしてまとめます。

ロックサークルと自分

現状のギターロックの氾濫

巷の軽音楽サークルでは、ギターロックがあふれ主に邦楽を中心に古今東西さまざまなロックが演奏さています。当たり前のようにMarshallとJazzChorusの音作りについての話題が繰り返され、最近のアーティストの音楽はほぼやり尽くされて、隙間産業を探してはそれに打ち込む時代性がそこにはありました。

しかし、個人的にはそれを揶揄しているわけではなく、この時代にあって極めてその状態は健全な状態であり、そういう状況だからこそ、変わったことをやると映えると思っています。所謂ロキノン系バンドも好んで聞くし、そういったサークル様子に特に不満を覚えることはないのですが、むしろ、そういった状態にあるからこそ自分の中で誰も見たことがない世界を提示してみたいという欲求が生まれたのだと思います。

ロックミュージックの拡張

ロックミュージックと打ち込み音楽の融合を商業的に成功させたRadioheadの存在は無視できないと思います。90年代のオルタナティブ・ミュージックの一界隈として、Radioheadはその地位を確立し、商業的成功と歴史的に重要な役割を果たしました。

それ以降は、パーソナルコンピュータが一般層にも普及し、パソコンで音を編集するのが当たり前の時代になってゆき、00年代のオールドロックの再復興の流れへとつながってゆきます。HIPHOPのようなビートミュージックとロックの融合や、ディスコ・ファンクの流れなどと融合したDaftPunkなどのロックの風味を取り入れたユニットがロックキッズの耳へと入っていくのです。Radioheadがすべての始まりとは言いたくは無いのですが、その功績は無視できないほど大きいのです。

エレクトロミュージックとポップの融合の歴史

それこそ、Bjorkがポップスとエレクトロの時代を切り開いてきた張本人であると。90年台のDTMもそれほど普及していなかった時代に、その偉業を成し遂げたことは大きいのではないでしょうか。テクノ・ミュージックから見ても、Bjorkの楽曲に含まれるイノベイティブな要素は無視できない斬新さであるとおもいます。

日本では、YMOがテクノをバンド・サウンドで演奏しポップへと消化させました。現代の所謂Perfume的なテクノポップの流行は、YMOの実験的な挑戦が布石となっています。

Squarepusher

テクノミュージックとバンド・サウンドの融合を目論み、夏にSquarepusherをバンドで演奏しました。テクノ・ミュージックとしてのドラムンベースを取り入れたロックバンドとして選曲を行い、バンド形式にこだわり人間のビートでテクノを演奏する試みに挑戦しました。

Squarepusherは90年台〜活躍しているアーティストで、ドラムンベースのビートにベースを乗せて曲を演奏するアーティストです。Jazz・Fusionの理解があり、初期の曲はコード進行が複雑な曲も少なくありませんでした。また、ドラムンベースを昇華させ更に複雑なリズムにし、その曲調はドリルンベースとも呼ばれていました。ドラムンベースのドラムフレーズは人間が叩くのが不可能なものも少なくありません。

3ピースで再現できて、なおかつ曲として成立するクオリティにするには、それ用の選曲をしなければいけませんでした。細かいところの工夫などは割愛しますが、テクノのような無機質なものにバンドサウンドを取り入れるのはなかなか大変でした。Squarepusherが生演奏のサンプリングを多用しているため、まだやりやすい方であったと思います。ドラムにとてもうまい子がいたのでライブとして成立しました。

「Squarepusherコピーする人がいるんだ。」とか思われたいがためにやったのが本音だったりします。

Bjork

電子音楽のバンド・アンサンブル

Bjorkの楽曲は、一部の民族楽器を除いてほとんどが電子楽器によるサウンドであり、生演奏で演奏するためには、かならず電子楽器を上手く操るメンバーが必要不可欠でした。Bjorkのライブ映像を見ると、ギターや生ドラムを演奏している人はおらず、ストリングスやハープなどの生楽器をメインとして演奏しています。エレクトロのビートの上に、ストリングスやコーラスが乗っかることにより、アンビエントかつポップなサウンドを実現しているのです。このこと自体は決して珍しいことではないですが、オルゴールを使った生楽器の自動演奏を取り入れていたり、電子音を人のグルーヴで出す工夫をしていたりと、両者のクロスオーバーを高レベルで実現しようとしているところにこだわりを感じました。あっぱれ。

人間のグルーヴ

Bjorkをバンドでコピーする上でこだわりたかったところは、普通は打ち込みの部分を一旦人のグルーヴを介して表現することです。クラブで流すわけではなく楽器演奏会としてのライブなので、打ち込みを流しただけで、はいライブでしたとは言いたくありませんでした。

バンドの背骨であるシンセベースは基本的に打ち込みやMidiOutを用いたほかは、演奏が難しいパート以外はすべて生演奏をするようにパート分けを行いました。そうすることにより、打ち込みを流すだけと思われているテクノ・ミュージックをバンドとしてのライブとして昇華させました。

ドラム・トリガー

バンド演奏で重要となってくるリズムパートですが、テクノミュージックではあまりドラムは演奏されません。しかし、Bjorkの演奏にはテクノ・ミュージックというよりポップ・ミュージックであるため、人のグルーヴを介した電子音のビートが必要不可欠でした。また、ドラムの生演奏では出せない音があります。そもそも、生ドラムセットではどんなに工夫しようとも出せる音色には限りがあります。その壁を超えるために、「ドラムトリガー」を作りそれをライブに取り入れました。

ドラムトリガーとは、振動センサーをドラムセットに取り付け、叩くとその振動を検知し予め用意していた音が鳴るというものです。これにより、生ドラムのビートで電子音を鳴らすことに成功しました。電子ドラムを買うよりは断然安上がりです。

DTM

Bjorkの音をライブで再現するためには、一旦すべてのパートを耳コピして聞き分けることが必要不可欠でした。というのも、生演奏では再現できないフレーズや音を見極める必要があったからです。そのため、ライブで演奏する5曲すべてのパートを耳コピして打ち込みました。音色も出来る限り再現し、原曲と遜色無いレベルまで打ち込みの完成度を高めました。

MIDIとアナログシンセ

ふとしたきっかけで、アナログシンセのJuno-106を拾い、それをライブで使用しました。アナログシンセ特有のツマミに最初は戸惑いましたが、色々と弄っているうちに感覚がつかめてきました。最終的に、MIDIインターフェースでPCとつなぎ、自動演奏できるようにしました。矩形波・ノコギリ波による太い音はベース音をメインにして使いました。

まとめ

ギターロックが氾濫する巷の軽音楽部でエレクトロミュージックをバンドで演奏することは一筋縄では行きませんでした。自分もDTM初心者なりに試行錯誤して、自分なりの答えへと近づけてゆきました。世の中にエレクトロミュージックを作って配信している人は星の数ほどいますが、それをロック・バンドとして演奏しようとするアーティストはなかなかいないでしょう。それも、エレクトロミュージックを作る際はライブ演奏のことはあまり考えておらず、曲の完成度を高めるためには、ライブで再現不可能な様々なエフェクトを取り入れなければいけません。

しかし、クラブ・ミュージックの世界ではその限りではありません。DJセットで掛けられるエフェクトを楽曲に反映させることは少なくありません。むしろ大多数です。演奏楽器とは違った独自の進化を遂げたDJセットという”楽器”に今後は注目してみたい自分がいます。

エレクトロミュージックとポップスの融合の結晶を、バンドで演奏してみるという実験をしてみた感想ですが。詰めが甘い点を除いて、概ね今の自分の出来る範囲を超えられたかなと思っています。暇な時間を無駄に使いDTMとのにらめっこをしてきたおかげかもしれません。そんな壮大なお遊びに付き合ってくれた友人と後輩に感謝したいと思います。

インターネット世代のアーティストと音楽

(※全体的に日本語が怪しいです。)

最近貪るように音楽を聞き漁っています。それも、普通の人はあまり聞く機会の無いアーティストをインターネットでクリックしてそのまま聞いています。Youtubeはもちろんの事、SoundcloudやBandcampといったインディーズアーティストの活用する音楽配信サービスを利用して、低クオリティながらセンスの光る、社会のゴミ予備軍なアーティストたちを好んで聞いているのですが、様々な野良天才のセンスを舐めていくと、このインターネット世代(ゆとり以降)のあり方というものが見えてきた気がしました。

便利なインターネットが沢山の人に普及したおかげで、僕みたいな貧乏人でさえも耳を肥えさせる事ができる時代になって来ました。「おすすめのノイズアーティスト」で検索すれば、大御所からマイナーなアーティストまで様々に耳を肥やすことが出来ます。また、そういった聞き方をしている人の中から自主的に情報をキュレーションして、新しい形のメディアが出来つつあります。

新しい音楽キュレーションの形

その最たる例が、旧路地裏音楽戦争の管理人が運営している野良ミュージックメディアのHi-Hi-Whoopeeがあります。若干二十歳である彼は、ゆとり世代のスーパーネットミュージックキュレーターだと勝手に僕は思っています。音楽のメディアは、他のメディアと比べ一世代も二世代も遅れがちな印象がありますが、路地裏音楽戦争はそのなかでも最も早いものの一つだったと思っています。しかし、ニッチな情報をまとめブログ形式で編集する術自体はさほど新しいカタチでは無かったように思えました。しかし、その管理人が路地裏音楽戦争を止めてまで新しく始めたブログが、Hi−Hi-Whoopee(ハイハイ)です。Tumblrを使い、複数編集者による共同編集という形を取った音楽のまとめ方の手法は、音楽紹介サイトの中ではかなり斬新だったように思えます。取り扱ってる音楽も、かなりイノベイティブな物が多く(Vaperwaveなど)、アートの文脈で扱っても、遜色のないほど、アバンギャルドでクオリティの高いメディアの形であると思います。

リスナー視点

こうしたインターネットで音楽を聞くというやり方が見に染み付いているという事は、インターネット世代の特権であると思います。音質やマテリアルを超えた、極めて精神的な情報を貪ることの出来る世代なのではないでしょうか?彼らは、2000円代のイヤホンを使い、0円で手に入れた音楽を64kbpsの音楽を聞くことに、何の違和感も感じ得ない人が多いと思います。しかしそれでも、音楽を120%楽しみ、ヘビーローテーションして、ライブに足を運びます。音楽の情報自体の価値が下がった訳ではありません。むしろ、本質的な音楽の価値は向上したと言っても過言では無いでしょう。マス向けの当たり障りの無い音楽は駆逐され、自分の好みの音楽に瞬時にアクセスしてそこにだけお金を落とすようになるという流れは、もはや避けられないと思います。

アーティスト視点

インターネット世代のアーティストもまた、そういった流れを汲んだ方法を取り入れています。MySpaceで爆発的に売れたArctic Monkeysなどが確実にその流れを作ったと思うのですが、現在ではSoundCloudやBandcampでDIYレコードを配信したり販売したりする流れが、ほぼ主流になりつつあると思います。また、日本のバンドでも、AudioleafやTumblrなどのサイトで音楽を配信したりしているアーティストも多く、その流れは今後更に盛んになっていくでしょう。しかし、バンド形式のアーティストの多くは極めて退廃的な方法をとっているアーティストが多く、ライブで手売りしたりPVを作って流したりと、60年代から変わらない方法をとっているバンドが非常に多いです。その中で、DIYでPVを作ったり、Twitterアカウントでファンと交流するものも多いのですが、それも、5年前の世界の名残だと思っています。

未来のはなし

様々な音楽にアクセスしやすくなった分、趣味嗜好が細分化されお金をばら撒くように使う人も減って来ました。それも、耳が肥えた人が増え音楽のレベルは全体的に上がっているのでしょうが、業界的には商売上がったりです。もうそこに情報とその対価の間でインフレーションが発生している状態です。そこに業界としての未来は無く、あるのは自然発生的に巻き起こるムーブメントくらいなものです。お金では取引できない価値が大きくなり、小さなコミュニティを形成しては消えてゆく未来が想像できる気がします。そういった野良ソーシャルの形成の一端を担うのが、ニッチなネットメディアになってゆくのでは無いのでしょうか。かと言ってお金の動きが無くなるわけではなく、断続的にアーティストに中抜きの少ないお金が入ってゆく仕組みがあれば、音楽は廃れてはいかないでしょう。

まとめ

あとから見直すと随分適当な事を書いていますが、音楽のあり方が変わってゆくのは確かだと思います。(もう結構変わっていますが。)そこで、インターネット世代の私たちの身の振り方一つで、天国にも地獄にもなりえる世界が待っていると思っています。音楽業界は、常に5年分くらい遅れがちではありますが、今後は同人活動的な、ZINE的な、レイヴ的なムーブメントがインターネット上で起こってゆくのではないでしょうか?そして、その主人公である私達ゆとり世代が、アーティストとどう関わり、お布施をなげるかどうかで、未来はだいぶ変わってくるものだと思います。

駄文失礼致します。

好きな二人組バンドまとめ

僕は昔から、理由もなく生理的に二人組バンドが好きです。

そのバンドの個性や音楽的センスを、それをもっともシンプルな形で表現していて、聞いててセンスがわかりやすく伝わってきます。

無駄な装飾音をすべて剥ぎ取り、それをもってなお素晴らしい音楽をなしているバンドが最強のPOPなのではないでしょうか?

ということで、聞いてて楽しい二人組バンドを新旧あわせて幾つか紹介します。

  1. The White Stripes
  2. The Kills
  3. The Fumes
  4. Death From Adove 1979
  5. The Black Keys
  6. Blood Red Shoes
  7. The Ting Tings
  8. Little White Lie
  9. Lightning Bolt

The White Stripes


言わずと知れたアメリカのロックデュオです。僕の二人組バンド好きになった原点であり、Bluesを知る切っ掛けにもなったバンドです。

ギターの旨さや、ドラムの下手さは言わずもがななのですが、特筆すべきは唯一無二の歌声と、ギターソロの音選びです。素晴らしいです。

The Killes

こちらも言わずと知れた名バンドです。

基本的にライブ音源をご紹介しているのは、そのライブの妙さをご紹介したいのですが、その最たる例がこのThe Killsです。

打ち込みマシーンでリズムを刻みながら、ギター二本で様々な音を出すのですが、Hotel(♂)のギターのクールさは常軌を逸していると思います。Viviの声のエロさも素晴らしいです。

The Fumes

二人組バンドにブルースデュオが多いのは、その音楽的特性からなのかもしれませんが、その音楽的特性をポップに聞かせてくれるのが、オーストラリアのThe Fumesです。

割りと正統派なブルース・ロックの流れを汲んでいるのですが、サムピックと人差し指ピックを嵌めながらスライド・ギターを使って妙技を披露しているのは他にはないと思います。自分でもやってみましたが、コレかなり難しいです。

Death From Adove 1979

こちらもアメリカのベースとドラムという珍しい構成のロックデュオです。

ブリブリに歪んだベースと、クールな歌声が特徴です。コレ、面白いのはベースなんですが、キーボードにベースをつないで音をいじっているのです。おそらく、ボコーダーを通して、エフェクトのみならず、ベースの音程まで変えているのだと思います。しかも、見たところギター・アンプまで通している様なので、ここまでブリブリになるわけです。

ベースにしか出来ない音使いをしている点も、賢いところですね。

The Black Keys

The Fumesと容姿までかぶっているのが面白い、アメリカで売れに売れているThe Black Keysです。圧倒的に売れています。

このバンドが面白いのはやはり歌でしょう。どこぞのR&BやFolkにルーツを感じられるこのメロディと、ブルースロックを合わせて聴かせるセンスが、このバンドのユニークな点であると思います。The Fumesと違って、歌もギターも上手です笑

Blood Red Shoes

こちらはインディ・ロックの香りただようイギリスのBlood Red Shoesです。

イケメンと美人がバンド組んでいると嫉妬しかありませんが、そりゃファンも着きますよね笑 曲もパンク的でかっこいいです。

The Ting Tings

クラブで大流行して、人気となったイギリスのちんちんズです。どんなに音がしょぼくなっても必ず二人だけでライブをやるというこだわりを持っているようです。

日本でも、バンド名の下さが話題になりましたね。にしても女の子わわいいです。曲のポップさと、クラブでの盛り上がりやすさも相まって、アメ人ならコレを聞くと踊りだすこと必至なのではないでしょうか?

White Little Lie

最近のバンドへと移ります。こちらも女性を交えたロックデュオで、昨年にデビューしたようです。

なので、全くライブ音源がありません。PVもこれ一本のみです。ロックンロールKillsとでも評しましょうか。センスの光る新生ロックデュオです。

Lightning Bolt

ハードコア的な界隈で有名な名前のかっこいいライトニングボルトです。

超出力のベースアンプを何台も繋げて、録音では撮りきれない爆音を出すバンドです。こういうのを変態と言うのでしょうが、回りにいる人達の狂い具合もなかなかです。鼓膜は破くものだと思ってるのでしょうかね?

 

ここまで紹介してきたバンドは洋楽ばかりでしたが、日本のインディーズにも二人組バンドはいくつか存在します。そして、まだまだ世界には沢山のロックデュオが存在します。ブルースロック界隈が結構見つけやすいのでは無いのでしょうか?

二人で活動しているアーティストはたくさん存在していますが、ロックバンドで更に、最低限の音だけで勝負しているバンドはいくつもありません。売れているロックデュオはセンスの塊といっても過言では無いでしょう。

これからも、沢山のロックデュオに出会えたらいいなと思う今日この頃です。

独りで考えてやること

最近(ほぼ)一人でアプリを企画から制作まで行いました。

クリスマスカードをゲームを遊んで送れるWebアプリです。
http://yohawing.com/yousanta

前にも一人でアプリを作ったことはあるのですが、企画からコーディングまですべて一人で行ったのはコレが初めてです。 何度も吐きそうになるのを耐えて耐えて必死にローンチしました。今回アプリを作った趣旨は割愛させていただいて、なぜ自分一人ですべてやろうかと思ったのかを誠に私情ながら書かせて頂きます。理由が幾つかあるので、順を追ってゆきます。

自分の範囲を見極めたかったから

実は、制作に関しては後輩にお手伝いしてもらったり、先輩からBGMをお借りしたりしていたので、厳密に言えば一人ですべてやったわけでは無いのですが、企画・アートディレクション・開発など、すべて自分の裁量で指示し、フィードバックも必要最低限に留めてほぼ一人で制作しました。友達や知り合いが少ないのももちろんあるのですが、今回は自分だけでどのレベルのコンテンツを完成させられるか試してみる、という挑戦の意味合いをもって、一貫して自分の裁量だけで制作をしました。

というのも、一人でしっかりした良いコンテンツを作れる輩に僕はあまり出会ったことが無いのです。まぁ普通そんなヤツ居ないですし、そんなヤツが居たら、天才か神かと崇める用意は出来ていますが、やはり居ないです。ネット上にはちらほらそんな学生は見かけますが。そんな偶像神に一回挑戦してみて、どの分野がどの段階で壁にぶち当たるか試してみたかったのです。そして、ついに到来した就活をする際に、自分の得意分野や未熟な分野を見極めて、就職先選びをしようかなと。そういった自己分析を見越したアプリ制作でした。

僕は、どんな分野でも一緒なのですが、完成したコンテンツに非常に魅力を感じていましてですね、好きで観察して見ていると、そのコンテンツがいかに沢山の要素で成り立っているかを知るわけです。音楽だったり、グラフィックデザインだったり、写真だったり、イラストだったりアイデアだったり、ディレクションだったり。そして今まで、色々なジャンルのモノに手を出して、その興味関心を噛み砕いてきました。僕が下手の横好きになってしまったのは、アニメだったりゲームだったり映画だったりといった、完成されたコンテンツを自分の裁量で再現してみたかったという、極めて中二的な衝動の故なのです。そして、今の段階で、その力がどれだけついたのかを知ってみたかったのです。

結果的には散々なものでしたが、やはり僕はデザイナーに向いているようです。もう二度とコーディングはしないと心に近いたいものですが、周りにプログラマが居ないので、もう少しだけやるハメになりそうです。ただ、もう少し頭がよかったらと思うことが多々あり、自分は良い職には就けそうにないなと改めて感じたものです。チノウガモノヲイエルジダイデスカラネ。

ただ、学生がやる物にしては、どれも頑張れたと感じています。割りと100%の力を出しきって、完成度的には、50%位だったのでまだマシな方じゃないかなと思っています。同じ事を他のノーマルな学生がやろうとすると、20%にも満たないものしか出来ない気がしているのは、傲慢なのでしょうか?将来的には、一人で100%を作れるようになろう!という目標は特には課していません。だってつかれるもの(笑)ただ、下手の横好きであることは、どんな物事に挑戦しても、それなりの結果を得られるコツのようなものを身につける能力があると思っています。どんな職業でも3万時間かければ半人前は抜けられるとよく言われますが、それを何個か繰り返すうちにどんどんその時間が短くなっている感覚です。それには自頭とセンスが多大な加点になってくるので、算段はしっかりつけないといけないのですが、僕みたいな自頭やセンスがない人間でもわりとどれもそれなりには頑張れたので、ある種のそういう才能があるのだと思います。調子乗りましたすいません。

欲望を満たしたかった

僕が100%を出している瞬間なんて、そんな大した瞬間ではありません。ただ、壮大な自己満足(オナニー)を必死にしているだけの場合が多いです。そんなものに他人を巻き込んでしまうことが憚られるのです。

今回作ったアプリも、仲の良い人にクリスマスカードを送りたいという考えの裏に、認めて欲しい・褒めて欲しい・理解して欲しい・意識して欲しい、といった強いエゴと欲求が渦巻いていました。正味な話、人が本気を出す瞬間は、死にそうなときか女の尻を追いかけるかのどっちかだと思っているので、今回はそういった本能エネルギーをお借りして、アプリ制作の糧としています。なので、作ってる途中と作って発表した後は、それはもう最高の気持ちよさでした。まぁ、それと同時に強い挫折感も味わうハメになってしまったのですが、自分の作ったアプリを他の人の楽しんでる姿を見るだけで、物凄く嬉しくハッピーになったのを覚えています。

人は、人にハッピーを与える行動をするだけでハッピーになれます。完全に等価交換の法則を無視している、ものすごくハッピーな法則です。憎しみやKIRAIも同じような法則に当てはまってしまい、戦争とか起こると思ってのですがその感情のベクトルを変えるだけで、世界中の人が幸せになることが出来ると思うのです。別に世界中の人に漏れなく幸せになって欲しいとは思わないのですが、自分の影響の及ぶ範囲はせめて、幸せのおすそわけをして共有できれば良いんでは無いでしょうか?

それもコレも、すべて僕のエゴであり、自己満足です。自分が思ってるだけで、実はそんなに人をハッピーにしていないのかもしれませんが、それでも正直良いのでは無いでしょうか?自分が良ければそれでいい気がするのも、エゴの一部なのでしょう。

 考える力と作る力の両方を養いたかったから

コレを言ってもどうにも成らないのですが、僕には考える能力が低いです。それは、自頭とかそういった次元の話になってくるのですが、いくら訓練しようとも超えられない壁が存在することは自分で気づき始めています。

物事を考えること自体はすきで、大学に入ってからそういった機会にも恵まれ、アイデアや企画を幾つか作ってきましたが、そうした中で感じたのは、自分の自頭の不出来さです。これはもう努力謂の問題ではなく、センスだったり生まれつきの頭のネジの緩み具合だと感じても居ました。

しかし、そんな事も言っていられない人生を歩むつもりですし、一生この不出来な脳みそと付き合って行かなければいけません。せっかく、自分のやりたいことを貫き通す力があっても、適切な判断が出来ないとカラダを消耗して終わる気がプンプンしているのです。結局は誰も幸せにせずに終わるのは絶対に避けねばなりません。心とカラダを適切にコントロール出来ないと、大失態を起こす可能性すらあります。

なので、断続的に一生この脳みそを鍛えつづけて行かなければいけないと感じています。なので、他人の指摘に100%耳を傾けるのではなく、自分の頭のみで、出来る範囲のことをやろうと考えていました。この企画の為に考える時間をとり、企画書を書き、コミュニケーション設計を考えました。制作に追われて、完成度の半分程度しか出来なかったのは悔やまれますが、次にリベンジしたいと思っています。

まとめ

アーティストという職業は、企画・制作・広報・人集めなど、すべての仕事を一人で考えてこなさなければ行けません。そういった意味で、世の中で活躍しているアーティストは神レベルの天才の集積であると言えるでしょう。そういった天才が、極貧に耐え、辛い製作にたえ、素晴らしいコンセプトとともに世に出すという行為そのものが賞賛されるべきことだと思っています。僕も拙いながら、その真似事をちょろっとやったということで、アーティストという職業がどんなもんかわかった気がします。

今度はもうちょい人を巻き込んで、ネチネチ世の中にDeepImpactする行為を模索していこうかなと思っております。打たない弾は当たらないですからね。

大学生にありがちなこと

個性が押しつぶされる国「日本」。日常に「普通な人がいい」が社会的にも潜在的にも刷り込まれています。そんな国に住んでいる大学生は、どんな”普通”をもっているのだろうか。「アライグマは川でイモを洗いがち」といった感じで、「日本の大学生って〇〇しがち」な所を鋭く突いてゆきたいと思います。

※沢山の人を敵に回してます。もしかして、アナタも・・・。

長期休みがワンパターンになりがち

大学生の長期休みってかなり長いですよね。僕なんかは国公立大学なので2ヶ月以上になる時もあります。周りを見てると、なーんか同じような休みを送ってる人が多いんですよね。特に多いのが次の3つです。

大学生の長期休み三ヶ条

  1. 免許は早めにとる
  2. バイトを多めに入れる
  3. 友達と旅行に行く・サークルの合宿に行く

人に会って「夏休み何してた?」って聞くたびに、この3つを網羅してる人が本当に多くて、「お前らマジでワンパターンすぎだろ!」って毎回思います。ホントどいつもこいつも無個性な奴らで困っちゃいますね!ちなみに、僕はほとんどどれもやったことがありません・・・。

中東に行きがち

ハイこれ、友達に3人位は絶対いるよね!いるよね!理由は色々だとは思いますが、おそらく一番アツいのは国際協力団体に便乗するパターンでしょう。「カンボジアに学校を建てて、子供の笑顔をなんとやら!」「学生でもッ、世界は変えられるッ!まずは、貧しい国からッ!」という名目で数々の“学生団体”が中東・東南アジアに行ってます。噂によると、「出向資金が出る」とか、「最強の就活ネタ」とかなんとかいう、根の葉もない噂が流れてきますネ〜〜〜。

他にも、「自分探し」だとか、「死生観が変わる」とか「現地の“生”を体感するため」だとか、そういうので中東当たりを放浪する人もいるよねー。「大学生でしか出来ないことだから!」とか言って、僕もヨハネスブルグとかに行ってみたいですわ〜。

大学生がよく行く所

  • インド (死生観系学生に人気)
  • カンボジア (学生団体に人気)
  • バングラデシュ
  • タイ (旅行に手頃)
  • ラオス

うわー。俺の知り合いでたぶん20人以上この中のどれかに行ってるわー。カンボジアとか学生団体が行きがちな国No1でしょ〜。現地の子供達と、楽しそうな写真撮って、公式サイトにアップするんでしょ。ちなみに決してディスってるわけではありません。子供を助けたい、弱者を守りたい、弱い立場にいる人達を助けたいといった心意気はたいへんすばらしいとおもいますし、そんけいにあたいします。大学生が現地に行く旅費で、カンボジアの子供が約10人ほど学校で教育が受けられますが、そんな細かいことは気にしてはいけないでしょう。要するに「自分たちが支援した」ということが一番大事なことですからね。はい。

合コン組んでよ。って言いがち

ホントに大学生は、「合コン組んでよ。」ってメッチャ言います。「どうしてこいつは、こんなにも他力本願でいられるのだろう。」って毎回思ってます。周りにチャラい人がいない僕でも、大学に来てから50回はこのフレーズを聞いてます。たまにチャラい奴と複数人で会話すると、

A「この前合コンで〇〇が〇〇して、ちょー面白かった。」

B「いーな、合コン。そいや、最近女の子と遊んでないや。」

A「いいだろぉ(笑)そいえば、〇〇ちゃんって知り合い?」

B「知ってる知ってるwその子入れて今度合コン組んでよ。」

A「えぇー。まぁいいけどー。」

俺「(自分で組めよ。)」

こんなことがしょっちゅうです。自分で合コン開けるほど、女の子の知り合い居ないけど、かわいい女の子と出会いたいし遊びたい というキモチからなのでしょうかね。僕は、合コンにいい思い出がないので、頼まれても行こうとは思わないのですが、ここまで合コンに力を入れる種族もなかなか社会的には珍しいのではないのでしょうか?マジで街コンにでも行ってコミュ力磨いてから来なよ。

 ラーメン屋にいきがち

自然と大学生は、大学周辺の食に詳しくなるものですが、おいしいラーメン屋の話題の話題に上がりやすさは常軌を逸しています。これは大学に限った話では無いのかもしれませんが。「俺昨日二郎いってきたぜ。」とか「今日放課後二郎いくから、昼抜くわ。」とか「俺最近二郎行き過ぎて金ない・・・。」とかそんな話ばっかりです。マジでジロリアンはあたまがおかしいです。そして、ジロリアンはたいてい臭いです。すいません二郎の愚痴ばっかりで。うちの大学の周りには、美味しいラーメン屋が5軒ほどあるのですが、全部制覇してる人がザラにいてそれもきもちわるいです。僕も一応全部制覇していますが、それがどうとかいう気は特にありません。

意識の高いリア充サークルに入りがち

まじで目障りなのがこいつらです。MTGと称して学食の席を占拠するのも、掲示板にビラを連貼りして他の団体に迷惑を掛けるのもこいつらです。ほかにも、数えれば色々な所業を犯し、それを繰り返しています。(チラッ。)ただ意識が高いだけだったら、こんなにも迷惑にはならないのでしょうね。100人規模の人気サークルとなると、色々な活動に手を出し始めては、いろいろな界隈の人に影響を与えます。それこそ、カンボジアに行き始めたりとか、新しい学生団体を作ったりだとか、写真展をやったりだとか、ポストミスコンを作ったりだとか。ちなみに、決して特定の団体をDisってるわけではありません。

あともう一つ気になるのが、こういう団体って大体ブログをやってると思うんですけど、どうしてどこの団体もアメブロを使ってるんですかね?ブログと言ったらアメブロしか思いつかないんですかね?最近のわかいひとは、そうなんですかね?そしてブログにはとりとめのない、くだらない日常が綴られます。活動の近況報告や、誰かの誕生日パーティなどなど、そこには、精一杯大学生を楽しんでいる、”非常に羨ましい”写真がアップされます。別に嫉妬しているわけではないんですが…。

三年の冬になると髪を切りがち

これは今でも謎なのですが、どうしてか大学生はみんな三年の冬に頭をさっぱりさせます。さらには「シューカトゥ」という謎の単語を発し始めます。その他にも「ウィーエス」だったり「ツメーカィ」などの、謎の呪文を唱え始めます。僕も今年は三年なのですが、今のところ髪を切る予定も無いですし、呪文を唱える必要にも迫られていません。裏技で「クゥームィン」という裏ルートもあるらしいのですが、よくわからないです。なんだか周りがピリピリし始めたのも、きっと冬が近づいているからでしょう。僕に向かって「リュウーネン」って云う人も居ます。なんだかよくわからない時期ですが、僕は風邪を引かないようにしながらプログラミングの毎日です。変な呪文を唱える大学生だけには絶対になりたくないですね。

大学生にありがちなことを考えがち

ここまでありがち大学生を揶揄してきた僕ですが、僕にも揶揄されるべき点が沢山あります。「こっそりブログやりがち」「恥ずかしい詩を自サイトに載せがち」「Facebookにいがち」「SNSもう飽きたわ。って言いがち」「Twitterでネタポストしがち」「大学生なのに、大学生揶揄しがち」「JOJOに影響されがち。」「最近覚えたことを使いがち」「微妙に自分のこともディスりがち」数えればキリがないッ。

日常に差異を作りがち。

エンターテイメント

現代アートを勉強したりしていると、自分にもアートが出来る気になってくるものですね。最近だときちんと論文を読んだり、難しい文献を読むことも増えてきて、アートに対する知識もそこそこ付いて来たし、多様な作品を見ることによってアート的な感性も以前に比べれば、結構研ぎ澄まされて来たような気がしているのです。それでもって、筆とアクリル絵の具を持って対象に向かって見ましたが、なかなかファンキーで糞汚い絵しか描けませんでした。まぁそんなことはどうでもよくて、僕は今度人をエンターテインする機会に恵まれたので、今一度、「エンターテイメント」を考えて見ることにします

目次

  1. エンターテイメント
  2. メディア
  3. まとめ

エンターテイメント

まずは、語源から辿って行きましょう。

entertain [動詞]

差し挟む, 挟む, 差し挾む, 遇する, 楽しませる, 遇す, 振る舞う, 振舞う, 抱く, 懐く, 持て成す, 相手をする, 取り持つ, 取持つ, 擽る, 擽ぐる(Weblio英和対訳辞書)

Enterは、入ったり入力したりと、”中に作用する”という意味があります。また、-tainは「保つ」という意味がありますので、”中の物を保つ”という意味が転じて、上記のような意味を持ったのだと思われます。それが転じて「人を楽しませる」という一般的に知られた意味へと派生していったのだと思われます。

次に、エンターテイメントの定義から見て見ることにしましょう。

特に演者の技能を鑑賞することを主体とした見せ物出し物余興などを指す語で、スポーツ・舞台演劇・演奏会・公演などを指して言う。(Wikipedia)

「演者の技能を鑑賞することを主体とした…」とあるので、演者の何らかの資質(タレント)を人に見せるという点が、エンターテイメントの本質と一応ここでは仮定します。演者のタレントを人に見せた結果で、人が楽しんだり、悲しんだり、同情したりといった様々な心の中の動きをデザインすることができます。エンターテイメントには必ず人(演者)を介している、人(観客)を対象にしたコンテンツなので、そこには精神的な作用と同時に、メディアのマッサージ能力により肉体的な作用をもたらします。ちょっと難しく言いましたが、要するに芸人がネタをやると、精神的にも楽しみを感じられるし、時に腹を抱えるほど笑っちゃいますよね。TVなんてタダのデジタル信号に過ぎないのに、時に人は腹が痛くなるほど笑ったり、胸が痛くなるほど悲しんだりするように、コンテンツの届けるメッセージは肉体性を伴って身体に影響を与えることができるのです。タレントを持った”演者”が、”観客”に向けて演出されたメッセージ(演者のタレント)を見せているに過ぎないこの現象ですが、今日ではこの現象が生活の中心にあり、人々を魅了し、欲望の対象としての地位を完全に確立しています。もちろんエンターテイメントが生活の中心にある事は今に始まったことではないですが、消費する側と生産する側の力関係が微妙に変化している今日この頃だと思います。そして、今までエンターテイメントを消費する側だった人間の僕が、エンターテイメントを生産し提供する立場となってしまっている今の状況は、最近の時代背景に深く影響されているものだと感じています。最近だと、国民総クリエイターとかお国が騒いでる時代で、誰でも創作意欲さえあれば、インスツルメントとメディアは全て自前で用意できる時代です。電車の両隣の人がクリエイターでもおかしくありません。そんなエンターテイメントが社会に偏在する時代において、そのコンテンツの作り方やノウハウはWeb上で共有できたり、分析できたりする時代です。今こそ、エンターテイメントのクオリティを上げるためのノウハウを、既存のコンテンツから分析していこうではありませんか。

メディア

Ladies and Gentlmen! 本日は、エンターテイメントのドンとして、お茶の間の目線を全て集める大スターのテレビジョン(TV)さんをスタジオにお招きしています!

今や、お茶の間の自堕落を強力に助長する、最強の媒体となったテレビ。人の注意を最大限に引きつける巧妙な番組構成とCMを入れるタイミングは、ある種の完成されたITシステムのように感じます。人を惹きつけて話さないコンテンツは、エンターテイメントとして最強だと思うのです。なので、TVのシステムに倣い、人を惹きつけて止まないコンテンツの作り方を勉強してみましょう。

まずひとつに、TVは「次が気になる仕組み」を作るのが非常に巧妙であると思います。僕はよくTVを見てる時、途中で用事ができてもすぐには動けなかった経験がかなりあります。それは、TVの続きが気になってしまって、その続きを見るまで気になってしょうがないからです。「続きが気になる仕組み」は、エンターテイメントでは非常に大切な要素となっていて、例えば週刊誌の漫画なんて特にそうなのですが、ちょうど次が気になるタイミングで話を終えて、来週の話の期待を最大限に高めています。TVはこの「次が気になってしょうがない」間隔が、短めに設定されていて感覚的に気持よくコンテンツを消費することができます。いわば、面白いマンガを次々と勝手に見せられている感覚に近いと思っています。次が気になるタイミングでTVCMを入れるのも、非常に効果的でTVから目をはなさない状態でTVCMを見せることができます。

次にTVエンターテイメントに習わなければいけない点は、「観客の思考を停止させる」というところです。「クイズ番組とか、ちゃんと考えてるんだけど。」という声が聞こえてくる気がしますが、はいそこのあなたは完全に思考停止してます。思考を停止させるというのは、他の雑念を入れずにそのコンテンツに没頭させる事を言います。そのためには、コンテンツに“ノイズ”や“違和感”があってはいけません。TVを夢中で見てる間は「宿題やんなきゃ」とか「ご飯食べなきゃ」とかそういう感情が奪われてる感覚はありませんか?少なくとも僕はあります。その点で他にもっと強力なメディアがあります。社会的思考能力を取り去り、コンテンツに没頭させるそれで最も強力なものはやはり「ゲーム」でしょう。ゲームの思考停止感は半端ないですよね。やり終わった後に罪悪感に駆られることもしばしばです。こうした「観客を思考停止させる」術というものは、簡単には出来ることではなく、エンターテイメントが”完成されたコンテンツ”である必要があります。それは、どの点を見ても欠点や違和感が無く、観客の欲望を常に刺激していなければいけません。この二つが「観客を思考停止させる」という術の中核を成していると思います。

生コンテンツ

エンターテイメントは、大きく二分するとすると”生”か”それ以外か”に分けられると思います。ここでは、”生”のコンテンツをよく見てみましょう。生コンテンツを上げればキリがないので、僕が経験したことのある「音楽のライブ」を例にあげて考えましょう。(音楽のライブ・・・か。)やはり、ライブで一番大事なことは、“ライブのクオリティ”に他ならないでしょう。楽器体の安定感や旨さも大事ですし、ボーカルの旨さももちろんものすごく大事です。しかし、そこを考えていってもにっちもさっちもいかないので、他の要素で生ライブのエンターテイメントで大切な事を考えてみます。まずひとつに、「主役のカリスマ性」がかなり重要な要素だと考えています。ここでいつも浮かぶのは、浅井健一さんなのですが、他に中高生に有名ドコロだとすると、藤原基央(BUMP OF CHICKEN)さんだったり、野田洋二郎(RADWIMPS)さんとかでしょう。先立って挙げた、タレントを十分すぎるほど持ち合わせてるご尊父様達でしょう。やはり、ライブで才能を発揮できる人とできない人が居ます。そこは完全に才能や資質に依る所が大きいと思います。普段、おとなしくて悶々と生活してる少年が、ギターとマイクを持つとジミヘンのごとく変化する可能性だってありますし、普段オチャラけてよく喋るひとでも、人前でマイクを持つと頭の中が真っ白になる人だって居ます。まとめると、適材適所です。はい。“生コンテンツ”だと特に、“タレントオーラを生で体感できる”という付加価値を付けることもできます。芸能人だって実物を見てみないと伝わらないオーラがありますよね。もう一つ、生コンテンツで重要なことは、“演出”です。まぁ、いわゆるお膳立てですね。いくら浅井健一さんがステージに立っても、照明がベースに当たってたら超台無しですよね。観客も激怒しますよね。ベースちょっとかわいそうだけど。ある程度の、演出の用意周到さと金のかけ具合はかなり大事な要素である気がします。MCもこの部類にはいるのでしょうかね。アノ感動的な前田敦子の卒業スピーチも、秋元康がニヤニヤしながら考えてるのでしょう。(超たぶん)神がかり的な偶然を味方につけるのも、スターの才能であったりしますが、殆どの人がないと思うので、ある種の演出も一枚噛めばエンターテイメントとしてのレベルは一線を超えることが出来ると思います。

まとめ

エンターテイメントをやる。と決意してコンテンツを作る人はなかなか少ないと思います。それも、「俺はエンターテイメントをやっている!」と自覚している人がすくないのでしょう。良いコンテンツを作るためには、まずは自覚が必要だと思っていて、次に作戦、3に努力だと思っていますが、それを人の才能はその方程式をゆうに超えて良いコンテンツを作る事ができます。人の心を演出でシステム的に動かすもよし、タレントの資質を信じていくのもよし、適材適所を見極めて、楽しいエンターテイメントを作れていけたら、今後の人生も楽しくなるんじゃないかなと思っています。楽しい人生を送りたいですね!

 

 

超かけにくいボタン

授業のレポートでThe White Stripesの MV の The Hardest Button to Buttonについて調べたので、ついでにブログにも載せてみます。

はじめに

少しでも映像に興味のある人ならば、一度は聞いたことあるだろう、映像作家のミシェルゴンドリーの作品が僕は大好きです。そもそものきっかけが、高校生の時にTheWhiteStripesというバンドを気に入ってそのPVをYoutubeで見たのが、ミシェルゴンドリー作品に触れた最初でした。今まで、ハリウッド映画のVFXのようなハイテクな映像ばかりを嗜好していた僕にとって、視覚トリックを見せられているような、あの感覚に衝撃を受けた。それからは、ミシェルゴンドリーの映像作品を探し、作品を見、どの作品にも込められている芸術性に引き込まれていったことをよく覚えています。

作家紹介

ミシェルゴンドリーは、フランスの映像作家で、長編の映画やアーティストのミュージックビデオ、CMなど、活動は多岐にわたりますが、そのどの作品にも共通するのは、シンプルなアイデアと、それを見事に表現する映像マジックです。そのアイデアのキャッチーさと、視覚トリックばりの映像マジックは、初めてその映像を見る人でも引き込まれ、記憶に残るものだと思います。今回題材に取り上げたThe White Stripes “The Hardest Button to Button”はミュージック界でもかなり有名な方の作品ではないかと思います。(もしくは、Chemical BrothersのStar Guitarがよく取り上げられる気がします)映像の授業でもたびたび紹介された記憶がありますし、おそらくこの文化分析批評入門でも取り上げられてもおかしくない作品だろうと思っています。

反復表現について

このミュージックビデオの主な特徴としては、増殖する要素と、黙々と繰り返される反復表現でしょう。映像表現として反復表現を用いている作品は多く、古くはズビク・リプチンスキー(Zbig Rybczynski)が70年代にデジタル技術を使った反復表現をミュージックビデオ[1]で試みています。音の反復性の点から見ると、日本人ならお馴染みの佐藤雅彦の手がけた初期のTVCM[2]に類似点を見出すことができます。リズムに乗って復唱される商品名はTVを見ている消費者の耳に刷り込みのように残ったものだと思われます。この作品の素晴らしいところは、反復し増殖される要素が、すべて大量に用意された実物である点だと思います。この作品が作られた年(2006年)のデジタル技術では、複製と合成なんて簡単にできるでしょう。しかし、それを避けてあえて実物を増やすことによって、デジタル表現に慣れてしまった現代の人々の目を欺いているのです。「コレはCGか?」「いや、違う」といったような会話が想像できるように、特殊な表現は大体CGであるという先入観を欺いて視覚的にも感覚的にも視聴者を困惑させられるような仕組みになっているのです。

ストップモーションアニメーションとの差異について

僕は映像が専門ではないので、細かい定義の話は出来ないのですが、この作品はストップモーション・アニメーションとはまた違ったものであると思います。コマ撮りという手法を使う点では一致していますが、1コマ1コマが、短い映像の切り貼りで表現されており、従来のコマ撮り映像とは一風変わった手法で撮影されています。人間をストップモーションで撮影する事をピクシレーション[3]と呼ぶのですが、この動画のように映像を細かく切り刻んでつなぎ合わせる手法は残念ながら調べられませんでした。こういった手法は、果たして以前からあったのか?あったとしたら、誰が先駆者でどのような文脈で生まれたのかを是非授業の題材で取り上げて欲しいと思っています。

パロディ

この作品は、その映像表現のおもしろさと、バンドの成功も相まって沢山のパロディが制作されています。その中でも最も有名なものはThe Simpsonsのパロディ[4]でしょう。制作された経緯は詳しくは知らないのですが、ミュージックビデオにカメオ出演しているアメリカのアーティストのBeckが本人に変わって声出演という話もあります。その他にもYoutubeには沢山のファンの二次創作[5]が制作されています。こういったファンの二次創作が頻繁にされることが、撮影方法もアイデアもシンプルなのに面白い、という事実を表しているのです。

アナログな質感へのこだわり

ミシェル・ゴンドリーの作品は、一貫してローファイな映像をとおしてアナログな質感を表現しています。そのこだわりは自らの映像作品集のメイキング映像[6]でも徹底されています。2000年代に撮影された作品にもかかわらず、60年代に撮影されたかのようなローファイで味のある映像を撮影しています。他の作品にも見られるミシェル・ゴンドリーのローファイな質感へのこだわりは、自らの映像のアイデアの地震の裏返しとも取れます。

まとめ

ミシェル・ゴンドリーがTheWhiteStripesのミュージックビデオを制作したのは、この作品を含めて三作目あるのですが、そのどの作品も素晴らしいアイデアとアナログへのこだわりがあります。映像を見る人を視覚と先入観のトリックに陥れるそのスキルと感性は今後も多くの人を魅了していくでしょう。

参考URL

  1. http://www.youtube.com/watch?v=tytPcvyJASc
  2. http://www.youtube.com/watch?v=nNmSHVGiZ80
  3. http://en.wikipedia.org/wiki/Pixilation
  4. http://www.youtube.com/watch?v=RTIy6HaF5Lk
  5. パロディ
    1. http://www.youtube.com/watch?v=dS68VcME9wk
    2. http://www.youtube.com/watch?v=hwJnSRvQDzY
    3. http://www.youtube.com/watch?v=dS68VcME9wk
  6. http://www.youtube.com/watch?v=fOnBEl0x75A