黒人ヒッピーは居なかった


モンタレーポップフェスやウッドストックなどの映像を見ていると、観客側に黒人が異様に少ない事に気付いた。また、嵐の青春(PSYCH OUT)や白昼の幻想(TRIP)のようなヒッピー文化を主題とした映画を見ていても、黒人の出演者は少ない。このことから、ヒッピーにおける黒人の人口が少ないことに気付いた。当時ヒッピーの間で流行していたロックミュージックやサイケデリックロックは、黒人のブルースやゴスペルが元になっている部分が多く、黒人が作った音楽と言えるのにもかかわらずである。これには、当時のアメリカの黒人迫害の世相と密接に関係しているものと思われる。今回は、黒人とヒッピーとロックの関係図を洗い、論を作ることとする。

黒人からロックは生まれた。

そもそもロックは黒人が作った音楽である。20世紀初頭にブルースと呼ばれる音楽が、労働階級の黒人の間で生まれた。当時の黒人迫害の影響を色濃く残した、極めて原始的な音楽であり、歌われた内容は、労働や女や酒など、当時の風俗の事を主題とした内容がほとんどである。しかし、その感情に直接結びついた表現方法は、当時としては極めて画期的であったようである。ブルースが登場する以前は、クラッシック音楽のような、貴族のたしなむ洗練された知的な音楽のほか、教会で歌われるようなゴスペル(神への賛美歌)など、綺麗な俗要素のない音楽が主流であった。しかし、ブルースはそこから音楽を解放し、人間の本能と直結したような、極めて泥臭い音楽であった。登場した当時は黒人の間で、酒場で客を盛り上げるような形態で演奏されていたようだが、耳の早い音楽家がブルースの存在を嗅ぎつけ、本国でブルースを紹介しだした。これが今後に音楽の歴史を作る、「ロック」の誕生である。

白人がブルースを見出した

ブルースはその後、黒人の間でヒットし何万枚ものセールスをあげたが、それは黒人の間でだけの流行であり、世界的にブルースが流行するのは、エルビスプレスリーの登場を待たなければならない。チャック・ベリーなどが、ブルースをロックンロール・ブギウギへとの進化へと貢献したのち、エルビスプレスリーが白人としてそれを取り入れた瞬間に、ロックンロールは大ヒットを果たした。ブルースは、音楽としては多大なセールスの可能性を秘めていたものの、「黒人の音楽」というだけで、広い層には普及しなかったのである。プレスリーのヒットにより、ロックンロールにビジネスチャンスを見出したレーベルは、積極的にミュージシャンのプロモーションをするが、そこに黒人の介在する余地は少なく、あたかも「ロックは白人の音楽である」というスタンスを貫いた。このスタンスを抜け出すのには、ジミ・ヘンドリクスの登場を待たねばならないのだが、それだけ、黒人差別という文化の根は深かったように思える。かくして、黒人音楽は黒人不在のまま世界的にヒットを果たすのであった。

なぜ、黒人ヒッピーは居ないのか

ヒッピーは白人の富裕層から生まれた文化である。そもそも、お金に余裕がなければドラッグに浸る余裕もないし、国の体制に隷属されていた黒人がそこからの反抗としてヒッピーとして浮浪を始めるというのは、贅沢過ぎたのだ。当時の黒人は生活がやっとであり、日々生きることが精一杯であった。レコードを買って音楽を嗜み、集会やコミューンにふらふらと顔を出す余裕などなかったのだ。かくして、ヒッピーは白人専用の文化となり、そこに黒人が介在しようものなら、人類皆平等を謳っていたヒッピーですら、根強く残る黒人への偏見がそれを許さなかったのである。しかし、音楽的に評価されていたミュージシャンはこの偏見を超え、聴衆にエクスタシーをもたらすエンターテイナーとしてある程度の支持は得ていた。しかしそれでも、ジミ・ヘンドリクスはイギリスでヒットしていなければ、アメリカ本国での登場は遅れていただろうし、また、ソウルミュージックの素晴らしさに白人が少しでも目を向けなかったら、オーティス・レディングがモンタレーであれだけの喝采を浴びることはなかったであろう。それほど、アメリカ本国での黒人差別はひどかったように思える。

しかし、その頃の黒人の間では音楽は何も流行せずにいたわけではなく、黒人クラブのなかでは、ファンクミュージックが賑わいを見せていた。ソウルミュージックから派生した、踊れて陽気で元気の出るファンクミュージックは、公民権運動で疲弊していた人々の心を癒していた。黒人はヒッピーになり、ドラッグに浸る日々ができない代わりにファンクミュージックで仲間と踊り明かし、ハイになっていたのであった。ファンクミュージックでは、ジョージクリントンジェームズブランなどのスターがシーンを牽引し、後世に多大な影響を与えた。黒人の独特のリズムの捉え方は人間の本能に根ざしたものがあり、このリズムは後々の音楽に山ほど取り入れられることにもなる。

ロックを取り戻した黒人

1970年代の終わりになると、当時アメリカで起こっていた公民権運動は沈静化をみせ、黒人への社会的な差別は次第になくなっていった。音楽においても、ソウルミュージックが流行を果たし、黒人の音楽の素晴らしさを人々が楽しむようになったのである。その発端は、モンタレーでの黒人ミュージシャンの素晴らしい演奏が背景にあるのかもしれない。ファンクやディスコの楽曲も白人の間でもセールスが上がり、世の中の風潮から、次第に差別の色が薄れていったのである。ブルースやソウルミュージックを作ったとして、黒人ミュージシャンを見る目は次第に世の中に溶け込んで行き、生活も安定したのか、観客に黒人の姿が見られるようになったのもこの頃である。プリンススティーヴィーワンダーらが世界的なヒットを果たし、世界からも黒人音楽の支持が集まりだした。

白人の音楽も盛り上がりを見せる

しかし、ロックは白人のものでもあった。80年代になると、オルタナティブロックの兆しが見え始めたり、パンクミュージックがイギリスで流行った。ブルースの臭いは多少残るものの、全く新しいロックの形が白人の間で生まれたのである。一方黒人の間では、アンダーグラウンドでヒップホップの手法が開発されたりディスコ・ファンクなど、そちらでも賑わいを見せた。プログレッシブロックの流行では、黒人的な要素からの脱却を目論み、無機質で複雑な感情を排した硬い音楽が台頭を見せたり、テクノミュージックのような一定のリズムの反復によるエクスタシーの追求もこの頃なされた。音楽文化が一気に花開き、その役目を担ったのは他でもない白人であった。

まとめ

ロックミュージックは、黒人が生み出し白人が広めたということは、揺るぎない事実ではあるが、その裏には人種差別という文化があったのだった。今こそは、その壁は薄れつつあるものの、ロックは白人の音楽であるという固定観念が根付いてしまった。ヒッピーに黒人が居なかったように、ロックの歴史には黒人は居なかったのだ。いや、そうされてしまっている。文化と人種は常に密接に繋がっているが、時にはそれに気づかずに過ごしてしまう。しかし、よく考えてみれば、人種のるつぼとよばれるアメリカの1文化に白人しか登場しないのはおかしい話である。その裏に、人種差別という文化があったことに目を向けるべきではなかろうか。

コメントを残す